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   <title>日本史　大全集</title>
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   <title>大化の改新</title>
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      『大化の改新』（たいかのかいしん）は、6世紀の終わり頃から8世紀始めにかけての飛鳥時代（あすかじだい）に行われた政治的改革である。聖徳太子の死後、蘇我氏が勢力を強め天皇家をしのぐほどの力をもつようになった。645年に中大兄皇子（なかのおおえのおうじ）らによって蘇我氏を滅ぼした政治革命で、「乙巳の変」（いっしのへん）の後の出来事であり、「乙巳の変」は日本の歴史上最も古いと言われている内乱である。『大化の改新』は646年に「改新の詔」（かいしんのみことのり）が出されたことに始まったと言われ、「改新の詔」は新たな施政方針を示すために発せられた詔で、公地公民制（こうちこうみんせい）や班田収授法などが確立したと言われている。公地公民制は全ての土地と人民は天皇に帰属するとした制度でありながら、伴造（とものみやつこ）、国造（くにのみやつこ）が所有する一部の土地には適用されていなかったという説がある。
      
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   <title>南北朝時代</title>
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      『南北朝時代』（なんぼくちょうじだい）とは、1336年～1392年を指す日本の時代区分の1つである。後嵯峨天皇の退位後、鎌倉幕府の仲介により大覚寺統と持明院統が交互に皇位につくように取り決められた。後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、天皇独裁の専制的な政治を行う。これを「建武の新政」と言う。その後、足利尊氏は後醍醐天皇と一時和解し、建武式目を制定して幕府を開いた。1338年頃には北朝方が南朝方の優位に立ち、四條畷の戦いで南朝一行は賀名生へ逃れ、勢いは衰えていく。1339年に後醍醐が死去し、一時的に親房が南朝のトップに立つが、その親房も死去すると南朝はまた衰えていった。1392年に足利義満の斡旋により、後亀山天皇が後小松天皇に「八咫鏡」(やたのかがみ)・「天叢雲剣」(あまのむらくものつるぎ)・「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)の三つの宝物で、天皇が皇位のしるしとして受け継いだという「三種の神器」を渡し南北朝が合体したのである。これを「明徳の和約」（めいとくのわやく）と言う。
      
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   <title>鎖国</title>
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      『鎖国』（さこく）とは、江戸幕府が行ったオランダおよび中国以外の国との外交通商を禁じる政策である。孤立状態を指すが、実際は孤立していたわけではなく、外交や貿易に制限がかかっていただけのことである。『鎖国』の由来はケンペルの著書『廻国奇観』の一部を1801年に志筑忠雄が「鎖国論」としたことから一般的に広まったと言われる。管理貿易はオランダ・中国は長崎会所で、アイヌは松前藩経由で、朝鮮は対馬藩経由で、琉球は薩摩藩経由で行われた。『鎖国』は、フランシスコ・ザビエルの日本来航以来、キリスト教徒の数が拡大し、幕府にとっても脅威となり方針を転換したと考えられている。徳川政権の時代に禁教政策を始めると、1637年に日本の歴史上最も大規模な反乱である「島原の乱」（しまばらのらん）が勃発した。『鎖国』は、日本に独自の文化を与えることが出来たものでもあり、他国との関係を絶つことで発達した技術を早期に取り入れられなかったという欠点もある。
      
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   <title>南蛮貿易</title>
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      『南蛮貿易』（なんばんぼうえき）とは、16世紀半ばから17世紀初期にかけて南蛮人と呼ばれていたポルトガルやスペイン人の商人との間で行われた貿易のことである。1543年にポルトガルの商人が種子島に漂着したことがきっかけと言われている。貿易を活発化するため九州の諸大名はキリスト教の布教を許可し、貿易船の誘致に努めた。最初の漂着の時に、銃を売って行ったことから日本の「火縄銃」が開発された。そのため「火縄銃」は地名から「種子島」とも呼ばれていた。翌年、ポルトガル商船がはじめて長崎に入港し、貿易都市として栄えていき、豊臣秀吉も南蛮貿易を進めていったのだが、ポルトガル人のキリスト教の布教活動が植民地拡大を狙っているという噂を耳にし、「バテレン追放令」を発令したのである。「バテレン追放令」はキリスト教の布教活動を違法とし、宣教師の国外退去を命じた。しかし豊臣秀吉は、貿易独占を意図して長崎を没収して直轄地としたのであった。
      
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   <title>廃藩置県</title>
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   <summary>『廃藩置県』（はいはんちけん）とは、1871年8月29日に、日本の統一を押し進め...</summary>
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      『廃藩置県』（はいはんちけん）とは、1871年8月29日に、日本の統一を押し進めるために明治政府が行った行政改革である。藩を廃して府・県を置き、政府が直接全国を治める中央集権国家の形が作られたと言われている。旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県を置き、中央政府から知事が派遣された。藩と府県の管轄区域はとても入り組んだ所で、非効率だったと言われている。『廃藩置県』は、全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものであり、リストラのさきがけでもあった。そんな中でも、藩の財政が苦しいところは自ら廃藩を名乗り出るところもあったという。また、『廃藩置県』により、旧藩の負債をどうするかが問題となった。しかし、その負債は新政府が一括で背負うこととなったが、その届出額は7800万両にも達していたと言われている。それを逆手に取った藩主もいるようで、藩札を増刷して負債の届出をし自分の懐へ入れていた者もいたようだ。
      
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   <title>関東大震災</title>
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      『関東大震災』（かんとうだいしんさい）とは、1923年9月1日に、伊豆大島、相模湾を震源として発生したマグニチュード7.9の大地震による関東地方の災害である。死者行方不明14万2800人 （東京10万7500人、神奈川3万3000人、他県2300人)で地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、火災が多く発生し、台風による大風の影響で火の手が更に悪化したと思われる。また、東京気象台は火災の被害には遭っていなかったが、火災翌日の気温は47.3度を観測していることから、東京地方全域が火災の熱に囲まれていたことがわかる。東京名物であった浅草の高塔が、6階目から折れ下敷きになった者が数知れなかったという。また、12階劇場では、演技中であったが一瞬のうちに倒壊し俳優達は全員即死したらしい。新吉原の廓中もまた悲劇を呼んだ。火の手が回ると次々に近くの池に飛び込み、溺れ、窒息死をしたのである。その大火が鎮火したのは2日後であった。
      
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   <title>遣唐使</title>
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   <summary>『遣唐使』（けんとうし）とは、唐を中心とする東アジアの情報収集のための使節である...</summary>
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      『遣唐使』（けんとうし）とは、唐を中心とする東アジアの情報収集のための使節である。618年に隋が滅びる前までは「遣隋使」と呼ばれていた。日本の律令国家を築き上げるために官僚クラスの人材を、外国へ情報収集もかねて留学させたという。しかし、当時の航海技術は未熟だったため、航海は風任せであり命がけであった。八世紀の遣唐使のうち全ての船が往復できたのは、たった一回だけだったという。そのため、遣唐使に任命されても拒否する者もいたと言う。遣唐使の回数は12回～20回と言われている。また、遣唐使の船は大阪の住吉大社で海上安全の祈願を行った。そして海の神である「住吉大神」を船の舳先に祀り、航海の旅へ出たという。そんな遣唐使も、894年に菅原道真により廃止された。その背景には財政が窮乏していたことにあるようだ。遣唐使を派遣するには莫大な費用がかかることが大きな原因だったのだろう。なお、商人による唐との行き来が盛んになっていたので、あえて遣唐使を派遣しなくても良くなったというのも理由の1つである。その直後、唐が滅亡したため遣唐使に終止符が打たれた。
      
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   <title>文明開化</title>
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      『文明開化』（ぶんめいかいか）とは、1868年～の明治時代初期に西洋文明を急速に取り入れて、日本の文化が西洋化した時代を指す。日本の近代化を進めるため西洋文化を盛んに取り入れたことで風俗や衣食住にも大きな変化が起こるが、農村には行き渡らなかった。また、軍隊でも欧米人の強化な腕力や体力を身に付けるため、欧米の食事も取り入れられたが、慣れない食事に拒否感を示す者もいたため、カレーにはご飯を組み合わせ、醤油風味の肉じゃがなど、和洋折衷の料理が生み出されたのである。このカレーが後に「海軍カレー」と呼ばれるのである。また、近代的な学校制度が生まれ、学制＊が発布されるなど、教育面でも開化されていった。七曜制や１日２４時間制も普及し、断髪令も発令され、まげを結った男性はいなくなった。都会の建築物にはレンガなどが用いられ、ガス灯も設置され、人々の服装も西洋化されたため、一気に雰囲気が変わった。食生活にも牛乳や牛肉が取りいれられるようになった。
      
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   <title>高度経済成長</title>
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      『高度経済成長』（こうどけいざいせいちょう）とは、1950年代半ばから1970年代初めに日本経済が飛躍的に成長を遂げたことを指す。太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並びエネルギーは石炭から石油に変わった。その中で環境破壊が起こっていたのも確かであり、「水俣病」や四日市ぜんそく」といった公害病も発生してしまった。テレビ・冷蔵庫・洗濯機と言った家電製品が家庭に普及していったのもこの時期であり、家事に費やす時間に影響が出たため女性の社会進出にも一役買ったのである。しかし、1973年に第四次中東戦争の影響で原油価格が上昇し「オイルショック」と呼ばれる経済混乱が起き、およそ20年続いた『高度経済成長』に終止符を打つことになった。この「オイルショック」の時にはトイレットペーパーを買い占めるという混乱が起きたが、これは原油価格と直接関係のない物であった。同時にエスカレータの運転中止やテレビの深夜放送の休止が行われた。
      
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   <title>応仁の乱</title>
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   <summary>『応仁の乱』（おうにんのらん）とは、1467年～1477年に起こった内乱である。...</summary>
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      『応仁の乱』（おうにんのらん）とは、1467年～1477年に起こった内乱である。戦国時代に突入するきっかけとなったとも言われ、幕府の政治の中心になっていた細川勝元と山名宗全の対立をきっかけに、有力守護の相続争いや将軍の跡継ぎ問題も重なり全国規模に拡大した。京都を中心に全面戦争が始まり、各所の大寺院にまで火がかけられ京都中が戦火にまき込まれ焼け野原と化して荒廃していったのである。細川氏率いる東軍は24か国の兵約16万、山名氏率いる西軍は20か国の兵約9万を動員して戦った大規模な大戦となり、京都を中心に争いが起こっていたため、公家や僧らが地方へ逃れ、その影響で京都の文化が地方へ広まっていったと見られる。『応仁の乱』は11年にもわたり戦闘が続いたが、将軍同士が滅びることもなく、幕府の権力だけが失われ、結果的には何も得ない争いとなったのである。そんなことから、語呂合わせで「人の世むなしい応仁の乱」と呼ばれている。
      
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   <title>十七条憲法</title>
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      『十七条憲法』（じゅうしちじょうけんぽう）とは、豪族に対して官吏としての心構えを説いた道徳的訓戒である。『日本書紀』『先代旧事本紀』と記述されている17条からなる条文で、日本独立を維持するために国の基盤を作るため、当時、聖徳太子が天皇に代わって国を統治していたため、聖徳太子が定めたとされている。第１条「和（わ）をもって貴（とうと）しとす。逆（さか）らうこと無（な）きを旨（むね）とすべし」から始まり、第17条の「夫れ事独り断むべからず。必ず衆（もろもろ）とともに宜しく論（あげつら）ふべし」で締められている。そして、推古天皇や蘇我馬子（そがのうまこ）らを中心とした天皇制国家の確立を目指したのである。第1条からもわかるとおり、独断を禁じ、天皇に逆らうことを禁じ、周囲の意見を取り入れる会議原則を定めた。また、法家、道教の影響も受けたとされ、仏教の思想も盛り込まれているのが特徴である。
      
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   <title>黒船来航</title>
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      『黒船来航』（くろふねらいこう）とは、1853年にアメリカ東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・ペリーが浦賀沖に来航した事件である。旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号の４隻のアメリカ軍艦が来航し、当初は庶民も見物に出たりと悠長に構えていたが江戸を砲撃するかもしれないという噂が流れると一点した。アメリカは、太平洋で盛んに捕鯨を操業していたため、航海の拠点の必要があったのだ。そのアメリカ大統領の国書を渡しに来航したのである。しかし当時の12代将軍、徳川家慶は病の床にあったため、決断力が鈍り国書を受け取ったのである。そして、1854年琉球を経由して再びペリーは浦賀に来航した。ペリーは徳川家慶の死を知っての来航で、国政の混乱の隙をつこうという作戦だったのである。そして間もなく、ペリーの軍事力に屈する形で、アメリカの開国要求を受け入れた。そこで200年以上続いてきた「鎖国」が解かれたのである。
      
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   <title>邪馬台国</title>
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   <summary>『邪馬台国』（やまたいこく）とは、三国志の魏書に書かれている倭人の国である。弥生...</summary>
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      『邪馬台国』（やまたいこく）とは、三国志の魏書に書かれている倭人の国である。弥生時代の日本に存在していた国だと言われており、西日本のどこかであるとされているが位置は明確にはなっていない。そのため、大和説と九州説があるという。それぞれが主張し合っているが、これといった有力な手がかりがないため、決定に至っていない。また、邪馬台国の王は元々、男であったが卑弥呼が現れたことで政情不安が解消されたとされている。そこから、魏志倭人伝には女王国と記されていることもあるようだ。魏書には、邪馬台国の男はみんな刺青をしており、女は髪を結わず慎み深い生活を送っているとも記されている。また、「やまたいこく」と読まれていることについても日本語としての読み方であり、正確であるかどうかは判明していない。邪馬台国は温暖な地にあったと記されており、長命だったと言われている。邪馬台国というと卑弥呼のイメージが強いことから、代々女王が置かれていたように思われがちだが、実際に女王が置かれたのは卑弥呼の代だけである。
      
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   <title>前方後円墳</title>
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   <summary>『前方後円墳』（ぜんぽうこうえんふん）とは、古墳の墳墓形式であり、前が方形で後ろ...</summary>
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      『前方後円墳』（ぜんぽうこうえんふん）とは、古墳の墳墓形式であり、前が方形で後ろが円形となっているものである。上から見ると鍵穴のようにも見える。日本の古墳時代に作られた独特の物で、岩手県から鹿児島まで日本列島の広範囲に分布している。この形は古墳を牛車に見立てて作られたと言われており、円形の部分を車輪に模していると考えられている。前方後円墳は、時代によって多少形状が異なり、時代が新しくなるにつれて後ろの円形部分が巨大化していった。また、朝鮮半島南部にも前方後円墳は存在すると言われており、皇南大塚にある全長120メートルのものが韓国最大の古墳とされている。しかし、これは日本の前方後円墳とは形状が異なり、双円墳である。日本最大のものは大阪府堺市にある大山古墳で全長486メートルである。前方後円墳は日本各地に存在するが、北海道、青森県、秋田県、沖縄県にのみ存在せず、その他の地域では普通に見ることができるため、日本人にとって身近なものとなっている。また、場所によっては公園などになっている場合もあり、古墳に登って遊べる所もあるようだ。
      
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   <title>大宝律令</title>
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   <published>2008-10-02T04:10:50Z</published>
   <updated>2008-10-02T05:03:09Z</updated>
   
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      『大宝律令』（たいほうりつりょう）とは、8世紀初めに制定された日本史上初めての本格的な律令である。大宝律令の起源は天武天皇による詔や飛鳥浄御原令にあり、令の完成と共に大宝律令が完成した。これを機に天皇を中心とした、二官八省（太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省）の官僚機構を形成することになり、中央集権統治体制が本格的なものとなったのである。また、国・郡・里などの単位で地方官制も定められ、国司には多大な権限が与えられ、郡司にも一定の権限が与えられた。「律」は、刑法にあたる6巻から成り、「令」は行政法および民法などにあたる11巻から成っている。
      
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